たとえば何かのおぼし召し             ソンブレロ        中央に、ベンチ。    女が一人、座っている。    やがて上手から男、現れる。    男、ベンチに座ろうとする。  女 私の椅子なの。  これ。 男 え、ああ……。(立ち上がろうとする) 女 いいの。  掛けてて構わないわ。  ねえ。 男 え。 女 どうかしら?  何か見えた? 男 何かって……? 女 見に来たんでしょ?  おサカナを。 男 いや……。 女 じゃあどうしてここにいるの? 男 疲れたから休みたくて……。 女 でもこの椅子はおサカナを見るためなのよ。 男 サカナなんてどこにいるの? 女 それよ。(足元を指差して) 男 ここに? 女 そうよ。  その泉に。 男 水溜りにしか見えないけどな。 女 本当に何も知らないの? 男 なんのこと? 女 信じられないわ。  じゃあどうしてここに? 男 言うほどの理由なんてないよ。  気が向くままに歩いてきただけで……。 女 こんな地の果てまで? 男 え。 女 そんな人いないわ。  意味もなくこんなところまで。 男 地の果てだって? 女 そうよ。  一番端っこ。  現世の終わり。 男 そうは見えないけどな。 女 じゃあどんなかんじなの?  アナタの思う世界の果てって。 男 どんなって……。  もう少し、なんて言うか……。 女 大きな崖が立ちはだかっているとか? 男 まあね。 女 でも現実はこうなの。  世の中って往々にしてそんなものよね。  想像するほどドラマチックじゃないの。 男 うん、ただの平原にしか見えないな。 女 まあ、あそこが本当の果てなんだけどね。  厳密に言えば。 男 どれ? 女 あそこ。  ほら西側の丘。(下手を指差して) 男 へえ……。 女 どこにでもあるような丘よね。 男 端っこの向こう側は?  どんな? 女 むこう側の端っこがあるだけよ。  繋がってるんだもの。  ロールケーキみたいに。 男 越えられるのかな?  あの丘って。 女 ええ、ごらんのとおりよ。  そんなに高い丘じゃないわ。  越えてみたい? 男 いや、まあ、どんなものかと……。 女 興味本位ならおすすめしないわ。 男 繋がってるんだよね?  バームクーヘンだっけ?  みたいに。 女 ロールケーキよ。  繋ぎ目がちゃんとあるの。 男 つまりどうなってるわけ?  そのロールケーキの果ての先は。 女 よく知らないの。  おそらく同じような景色が続いているとは思うけど。 男 じゃあおすすめしないって言ったのは……? 女 だからアナタが興味本位で言ったからよ。  想像するほどドラマチックじゃないし、ましてパラダイスでもな  いはずよ。 男 わかるの? 女 ここがそうじゃないように。 男 似たようなもの? 女 行ってみる?  戻れないけど。 男 ……。 女 どう?  ある?  そういう覚悟。 男 いや。 女 その方が賢明よ。 男 でも繋がってるって言ったよね? 女 そうよ。  アナタだって繋がってるでしょ?  生まれて、幼い頃があって、そして今日まで。  ずっと。 男 ……。 女 とってもシンプルな原理だわ。  繋がってるけど戻れないの。  どう? 男 うん、わかりやすかった。  でも不思議なもんだね。 女 なにが? 男 実感がないからさ。  そんなに遠くまで来たっていう。  まるで図書館の中庭のベンチに腰掛けているみたいだ。 女 まだきっと酔っているのよ。  違う? 男 そんなことないと思うけど……。  まあ、でも確かに酔っていたのかもしれないな。 女 きっとね。  酔うと思いがけず遠くまで歩けたりするもの。 男 ああ、飲んだ帰り道によくそんなことをやったっけ。  最終のバスを乗り間違えたりしてね。 女 それで図書館の中庭で休むの? 男 うん、二日酔いの午後なんかにね。  公園のベンチは眩しすぎるからさ。 女 その中庭って何があるのかしら?  噴水とか? 男 細長い花壇がいくつか並んでいて……。  あとは、真ん中に池があるだけ。  ベンチの前にね。 女 大きいの?  その池って。 男 いや、水槽よりは大きいって程度。 女 何がいるの? 男 え。 女 まさか何も棲んでいないってわけじゃないんでしょ? 男 ああ、どうだったかな……。 女 忘れちゃった? 男 そうだね。  覚えてないな。  あんまり気にしたことなかったからね。 女 でもベンチの前に池があったんでしょ?  気にしないなんて信じられないわ。  忘れちゃったのは仕方ないけど……。 男 何もいなかったんだよ、きっと。  だから印象がないんだ。 女 うぅん、違うわ。  関心がなかったんだわ。  目の前にある池でもアナタの視界にはなかったのよ。 男 そうかもしれない。  でもまるで予想してなかったんだ。  まさか図書館の中庭にある池の生態を尋ねられるなんてさ。 女 世の中何が待っているかわからないものよ。 男 まったくだね。  今度はちゃんと見ておくよ。 女 ダメ。  いま知りたいの。  その池の中のこと。 男 だから覚えてないんだってば。 女 話して。  思い出さなくてもいいから。 男 どうやって? 女 考えて。  うそでもいいの。  信じるから。 男 意味ないんじゃないかな? 女 あるわ。  聞きたいんだもの。  小さな池の話を。 男 作り話でも? 女 現実だけじゃ物足りないの。  時々息が詰まりそうなこともあるわ。 男 やりきれないってこと? 女 だってずうっとここにいるのよ。  長い間、ずうっと……。 男 そりゃ退屈だろうね? 女 そんなの通り越しちゃったわ。 男 どれくらい?  長い間って。 女 百年くらい。 男 へえ……。  すごいね。  気が遠くなりそうだね。 女 ええ、でも言うほど大そうじゃないわ。 男 いや、感心するよ。  少なくともボクには考えられない。 女 それはアナタの百年と私の百年が違うからよ。 男 体感的にってこと? 女 そうよ。  それに実質的にもね。 男 実質的ね……。  でもそんなことってあるかな?  せめてそのくらいは公平なんだと思ってたけど。 女 世の中に公平なものなんて一つもないはずよ。 男 でも図書館の予鈴は毎日五時に鳴るけどね。 女 鳴るとどうなるの? 男 図書の貸し出しが出来なくなる。  それに閉館までにあと三十分って意味もある。 女 それは便宜的なルールでしかないわ。  もっと個々人の鼓動の違いのような意味なの。 男 ああ……。  なるほど。 女 わかるかしら? 男 まあね。  周波数の違いって言うかさ。  時間の密度みたいな。 女 ねえ、アナタの百年後って想像できる? 男 いや……。  でも、まあ土の中ってとこだろうね。 女 それってどんな心地かしら? 男 さあ……。  暗くて冷たくて、ちょっと湿っぽいかんじかな。 女 あんまり楽しくなさそうね。 男 そうだろうね、少なくとも。 女 辛いかな? 男 どうだろう。  今より楽なのかもしれないし……。  考えようによっては。 女 じゃあ百年前は?  どんなかんじ? 男 ……。 女 忘れちゃった? 男 難しいね。  百年後よりも。 女 どうしたの? 男 いや、何か聞こえたような気がしてて。  幻聴かな……。 女 そうよ。  気のせいよ。 男 ところでさっきの池のことなんだけどさ……。 女 なにか話してくれるの? 男 海の魚がいるんだ。  小魚だけどね。  でも確かに海に暮らす魚なんだ。  貝やヒトデもいたりしてね。 女 へえ……。  海が近いの? 男 いや、つまり海と繋がっているわけ。  池の底のほうでさ。  距離は相当あるんだろうけど……。  どうかな? 女 なにが? 男 こういうのは。  ダメかな? 女 ダメって……。  私に聞かれても困るわ。 男 面白くない? 女 そんなこと求めてないの。  せっかくだけど。  ただ確信を持って話して欲しいだけなの。 男 なるほど。  少しでも退屈しのぎに貢献したかったんだけどね。 女 それに別段珍しくないじゃない? 男 え。 女 池の底が海と繋がってるなんて。 男 聞いたことあった?  そんな話。 女 話じゃないわ。  現にこれだってそうよ。 男 これって……?  この水溜りが? 女 そうよ。  繋がってるのよ。 男 どこの海と? 女 どこ?  海って一つなのよ。 男 そうだった。  馬鹿なこと聞いたね。  それにしても見かけに寄らないもんだね。 女 そうよ。  ちょっとは見直したでしょ? 男 うん、この水溜りが海にまでね……。  驚いたね。(覗き込む)  へえ……。     男、水溜りを凝視する。  女 あらあら。  ずいぶんと興味が湧いたみたいね。 男 ああ、まあ……。 女 そういうものよね。 男 なにが? 女 ただの水溜りでしかなかったのにね。  ついさっきまでのアナタにとって。  急に変わったじゃない?  海と繋がってるって聞いて。 男 ああ……。 女 図書館の池だってそうだわ。  同じこと聞いてたらきっと興味をもったでしょうね。 男 まあ、そうだろうね。 女 でもごめんなさい。  先に謝っちゃうけど……。 男 ……。 女 ちょっと試してみたかったの。  どうなるかって。 男 え。 女 見たかったの。  アナタの反応を。 男 つまり嘘ってこと?  そりゃそうだよね、はは。  真に受ける方がどうかしてる。 女 海と繋がってるのは嘘じゃないのよ。  でもアナタの反応をみてみたかったのも嘘じゃないの。  それって試したってことでしょ? 男 嘘ならともかく……。  真実を使って? 女 試すってそういうことじゃない?  その道具が嘘か本当かなんて問題じゃないわ。 男 まあ、そう言われれば、そうなのかな……。 女 頭に来ない?  試されて。  ねえ、どう?  そう考えたら腹立たしいんじゃない? 男 いや、特に、そんな……。 女 全然?  でも一番酷いことじゃない?  人を試すのって。  違う? 男 そうなんだろうけど……。 女 いいわ。  べつに無理に怒らなくても。  アナタって心の中の何かがほんの少し欠落してるんじゃないかし  ら? 男 何か……? 女 ええ、何かよ。 男 なんだろう? 女 わからないわ。  でもそう思わない? 男 うん、そうなのかもしれないな。 女 私ほどじゃないけどね。  こんなに大きな欠落ってわけじゃ……。 男 そんなに? 女 だってとても正気じゃないわ。  こんなところにずうっと……。 男 辛いの? 女 うぅん。  ただ時々現実だけじゃもの足りなくなるだけよ。  さっきも言ったけど。 男 そうだったね。  あ……。     男、ふいに立ち上がり周囲を見渡す。 女 また幻聴? 男 ああ……。 女 何が聞こえるの?  人の声?  何かの音? 男 誰かが呼んでいるような……。 女 誰かって誰なの? 男 いや、ピアノの音にも似てる……。 女 ピアノと人の声は似てないと思うわ。 男 そう言われればそのとおりだね。 女 アナタの現実はどう?  満ち足りてる?  それとも荒廃してたりするのかしら? 男 どうだろう……。 女 答えて。 男 急に言われてもさ。 女 言葉を選ぶことないのよ。 男 うん、でも現実って受け入れるだけで、感想なんてもったこと   なかったからね。 女 じゃあどんな現実を受け入れてきたの? 男 いや、言うほど大そうなことはないけどね。 女 大そうなことなんて期待してないわ。  安心して。  聞きたいだけよ。 男 ……。 女 いかにもなんでも受け入れそうね。 男 成り行き任せってだけだよ。 女 割り切れちゃうのね? 男 うん、まあ……。  だからめったに懐かしいなんて思ったりしなかったんだけどね…  …。 女 だけど? 男 やっぱり計算機じゃないからさ。  きっちりかっちりってすべてを割り切れる能力はないんだよね。 女 たとえば、どういうこと? 男 出どころの知れないような数字に突如出くわしたりさ。  きっと何かのキーを押し間違えたんだろうけど……。 女 だからたとえばどういうこと? 男 以前住んでいた家の近くを通ったんだ。  どうしてだか忘れたけど、何か用事があってね。  で、まあ、ついでだからと思ってさ……。 女 見てみたくなったんでしょ?  懐かしくなってね。 男 うん、ちょっとした衝動だね。 女 で、どうだったの?  なにか変わってた? 男 建物は上塗りされて綺麗になってた。  もうずいぶん経つからムリもないけど。 女 壁って何色? 男 白だよ。  昔から。  屋根は茶色だったのが真っ赤に葺き替えられていた。  でも庭は変わってなくってさ。 女 どんな庭?  なにか植えてあったの? 男 うん、まあ、いろいろ。  花や木の名前はよく知らないんだけどね。  でもまったく昔のままだった。  枝に絡まるツルのかんじに至るまで……。  極端に言うとね。 女 へえ……。  その庭って広いの? 男 ささやかなものだよ。  ケーキのサイズで言うと三号か四号ってかんじ。       ピアノの音が聞こえる。 男 そうだ。  近所から聞こえてくるピアノの曲まで一緒だった。 女 へえ……。  聞き覚えがあるってだけじゃなくて? 男 まあ、そうかもしれないね。  よくわからないな。  時々ピアノの旋律がどれも同じに聞こえる気がするから。  図書館の予鈴でさえもね。 女 でも不思議ね。  何も変わってないなんて。  手つかずってことかしら? 男 錯覚だろうけどね。  だって十年近く経ってたと思うし。 女 庭の木ってアナタが植えたの? 男 いや、種ひとつ蒔いたことはなかったからね。 女 じゃあ前に住んでいた人が植えたのね? 男 うん、前の人か、もっとずっと前の人かもしれないけどね。  でも奇妙なものだね。  庭の木や草花になんてまったく関心がなかったのに。 女 そうね。  きっと近すぎたのよ。  で、それでどうしたの? 男 しばらく眺めてたんだ。 女 そのままずうっと? 男 うん、結構ね。 女 何年も? 男 いや、そんなには長くはないけど。 女 それで? 男 気がついたら、傍らに買い物袋を提げた女の人が立っててね。 女 誰? 男 帰ってきたんだよ。  その家に住んでる人が。 女 なんだって?  その人。 男 どうかしましたかって。  そう聞かれたから答えたんだ。  とても懐かしくて……ただそれだけですって。 女 そうしたら? 男 まだ住んで間もなかったらしいんだ。  で、いろいろ聞かれてさ。  どの花がいつ咲くかとか、どんな色の花かとかね。  とても興味をもって聞いてくれるからボクも覚えている限りのこ  とを話したんだ。 女 へえ……。 男 それで延々……。  気がついたら陽が暮れかけていてさ。 女 うん、それで?  もう少し端折ってもいいわよ。  どうなったのかしら? 男 それで……。  結局、そのまま。 女 そのまま……? 男 一緒に住むことになったんだ。 女 もっと聞かせて。 男 その後も彼女は主に聞き役。  ボクのとりとめのない昔話を熱心に聞いてた。 女 庭のことを? 男 それだけじゃなくて家の中のことも。 女 全然変わってなかったの? 男 壁紙は貼り替えられていたけどね。  でも細かいところに跡形はあってさ。  レンジ台の前の床のへこみとか、ベランダで見つけた植木鉢がつ  けた円形の跡だとか。 女 小さなエピソードばっかりなのね。 男 うん、小さければ小さいほど彼女は興味をもって聞いてくれた  からね。  たとえば押入れの奥の隅っこのささくれとかね。 女 ささくれ……? 男 うん、そんな話で一日過ごせたり……。 女 そういうの好きよ。  素敵ね。 男 どうしてささくれって出来るんだろう、とかね。 女 何かが引っ掛かったのかしら? 男 よくわからない。  ほんの小さなものだし。  まして押入れの隅っこのことだからね。 女 そうよね。  見つけるだけでも大変だわ。 男 なかなか一筋縄じゃいかないね。 女 ささくれ発生の原因究明ね。 男 うん、ささくれ発生のメカニズム解明。 女 わかったの? 男 もちろん、わからないよ。  わかる術すら見当がつかないし。 女 まるで惑星探査みたいね。 男 ああ、確かにね。  宇宙全体から見ればささくれも惑星も大して変わらないかもしれ  ない。 女 新鮮な発見と解明の毎日。 男 まあ……。 女 しあわせな日々。 男 ……。 女 でも長くは続かなかった。 男 え。 女 違うかな? 男 どうしてそう思うんだろ? 女 なんとなく。  そういうことを予感させるんだもの。  アナタの話し方。 男 なるほどね。 女 違った? 男 いや、そのとおり。  察するとおりだよ。 女 どうなったの? 男 終わったんだよ。  ある日突然。 女 どういうふうに? 男 亡くなったんだ。  早い話が。 女 突然? 男 うん。  朝まで元気だったから。  まあ、もっとも事故だからね。  って言うか、事故ってことに落ち着いたんだけどさ。 女 じゃあほかの可能性もあったってこと? 男 誰も見てないんだ。 女 昼間なんでしょ? 男 うん、まだ午前中だった。  輪転機に巻き込まれてね。 女 りんてんき……? 男 そう、一週間前から働いてたんだ。  印刷工場でね。  でも事務だった。  事務棟と現場は離れていたし、彼女が機械に近づく理由なんてま  るでなかったはずなのに。  なぜ彼女が輪転機に巻き込まれなきゃならなかったのか。  今でもわからない。 女 だから事故に落ち着いたのね? 男 うん、結局ね。  まるで機械に巻き込まれるために働きに行ったみたいだ。 女 でも、その悲劇って……。  仮に印刷工場じゃなかったとしても、なにか別の……。  たとえばシュークリーム工場に勤めてたとしても避けられなかっ  たんじゃないかって思うわ。  残酷に聞こえるかもしれないけど……。  必然的な事故ってことでね。 男 そうだね、ボクもそんなふうに思う。  調査の記録上だけでもね。  ボクの言い分が通ったのはそれだけなんだ。  事故だって言う……。  でもそれだけは譲りたくなかった。  もっともほかには何も要求はしていないけど。  だから事故といっても工場側には安全上の責任は問われなかった。  もちろん賠償責任なんかもね。 女 私、その人に似てるのかしら? 男 え。 女 どう? 男 いや、そんなことないよ。  似てない。  どうしてそう思うの? 女 うぅん、なんとなく。  そう思っただけ。  気にしないで。 男 そんな予感させたかな? 女 また逢えるかしらね?  どこかで、その人と。 男 どこかって?    女、一瞬だけ空を見上げる。 女 わからないけど。 男 ムリだよ。  もう亡くなったんだから。 女 でも、またいつか……。  ほら、アナタだって永遠に生きるわけじゃないでしょ?  だったらどうかしら? 男 どうって? 女 いずれ、どこかで……。  そうは思わない? 男 思えないな。 女 でもそういうことを信じている人もいるわ。 男 うん、でもボクはそういうタイプじゃない。 女 へえ……。 男 夕方にはもう輪転機が動いてたんだ。  正確には昼前にはもう運転が再開されてたんだって。 女 見たの? 男 うん、現場の確認に立ち会う必要があってさ。  それにしても……。  もっときっと大事なものがあったんだろうね。 女 なんのこと? 男 目の前にあったかもしれないもっと大事なこと。  でも気がつかなかった。  ささくれには気づいても……。  気づくのは小さなことばかりでさ。  だから何ひとつ明確に答えられなかったんだ。 女 どんなこと聞かれたの? 男 まあ、ありきたりなことだよ。  今朝家を出るときはどうだったか……。  いつもと違うことは……とか。 女 悩んでいる様子はなかったか……とか? 男 うん、そういうこと。     沈黙。 女 大きいんでしょ?  その機械って。 男 予想以上にね。  そもそも輪転機がどんなカタチなのかってことも想像出来なかっ  たんだけどさ。   恐いくらいけたたましく動いてたよ。  まるで午前中に停った分を取り返そうとしてるみたいにさ。 女 ねえ。  よかったら聞かなかったことにしてもらえない?  この話、私が。  って言うか、話さなかったことにしてもらえないかしら?  もともと、アナタが。 男 ああ、もちろん構わないよ。  楽しい話じゃないからね。  悪かったね。 女 こちらこそ悪いとは思うけど。  ここまで聞いておいて。  じゃあ、押入れのささくれについてってところまで……。  ってことでいい? 男 うん、押入れのささくれについては、結論出ずってことで。  おしまい。 女 了解、終了です。  ねえ。  わかった?  変わったのが。 男 え。 女 さっきから見てるでしょ? 男 水溜りのこと? 女 気がついた? 男 何かいた?  もしかして。 女 変わったって言ったのよ。 男 ああ……。  でも、なにが? 女 水位よ。  まだわからない?  男 水位?  へえ……。  で、下がったの? 女 上がったのよ。  増したの。  二ミリほどね。 男 つまり潮が満ちたってこと? 女 どこかで満ちて、その分だけどこかで引いて……。  でも少しだけ変化するの。  これが私の生命線。  この僅かな変化が。 男 え。 女 だって雲はとても速く走り抜けていくでしょ?  見てるとなんだか目が回っちゃうの。  でも何も変化がないのってとても辛いのよ。  わかるかしら? 男 うん、多分ね。  わかる気がする。 女 数時間で数ミリの変化。  とってもありがたいわ。 男 サカナがいたりするのかな? 女 時々ね。  めったに見れないけど。  何十年に一度とか、何百年に……とか。 男 よっぽど運が良くなきゃ見れないね。 女 一生分の運が必要なのよ。 男 どういうこと? 女 だからそういうことよ。  おサカナを見たら一生分の運を使っちゃうってこと。 男 じゃあ生きてても何もいいことがないってこと? 女 だったら見たくない? 男 そりゃ、まあね。 女 迷信よ。 男 ……。 女 でもそういうの信じる人っているの。  だから時々見に来るのよ。  わざわざこんなところまで。 男 一生分の運を使いに? 女 信じられる? 男 ウソなの?  これも。 女 私、ウソはついてないわ。  試したことはあったけど。 男 でも誰が好んで運を捨てに来るんだろ? 女 運に左右されたくないって考え方もあるわ。 男 なるほどね。 女 いろんな人がいるってことよ。  理解を超えるようなね。  でもアナタなら受け入れられるんじゃない?  男 いや、そうでもないよ。  容量の方もそろそろ限界ってところだし。 女 それでたくさんお酒を飲むのね? 男 ああ、まあ……。  アルコールと一緒に蒸発してくれるからさ。  少々のことならね。 女 それにしても飲みすぎよ。 男 え。 女 いくらなんでも。 男 どうしてわかるの? 女 匂うもの。  とっても。 男 そんなに? 女 まるで浴びたみたい。  遠くからでもわかるくらいよ。 男 へえ……。 女 自分じゃ気がつかないのね。  染み付いちゃってるから。 男 ……。 女 アルコールが漏れてるの。  臓器からほかの臓器に。  それが皮膚に浸透して服にまで染みてるんだわ。       沈黙。 男 確かに自分じゃ気がつかなかった。 女 そういうものよね。 男 なんだか実感が湧かない。 女 なんの実感? 男 いろいろ……。  って言うか、むしろ全部。  そんなに居たかな? 女 そんなにって? 男 数時間も。  さっきの話。  数時間で数ミリの変化……。 女 ああ……。  その実感ってこと? 男 うん、今自分がここにいるっていうことも……。 女 どうしてかしらね? 男 いや、きっと……。  記憶がはっきりしないんだ。  ここに来るまでのさ。 女 だから酔ってたのよ。  それで最終のバスを乗り間違えたんだわ。  それだけのことよ。 男 なにかもっと必然的なものを感じるんだけどね。  まるで彼女が輪転機に巻き込まれたみたいに。 女 なんの話?  それ。 男 いや、ごめん。  話してないことになってたんだっけね。  つまり、なんて言うか、その……。 女 お酒なんか飲まなくてもここに辿り着いたんじゃないかってこ  と? 男 うん、いや、確かに酒は飲んだんだろうけどね。  でもどうしてそんなに飲む必要があったんだろう……? 女 だから乗るバスを間違えるためよ。 男 なんだか堂々巡りみたいだね。 女 そうよ。  偶然と必然は絡み合ってるんだもの。  つまりアナタが選んだのよ。  いつもと違うバスを。  そうでしょ?  思い出してみて。 男 かもしれない。 女 ね。  で、偶然にもこんなところまで来ちゃっただけよ。  だけど、ここじゃなかったの。  それに、私じゃなかったでしょ? 男 ……。 女 私が待っているのも……。  アナタじゃないわ。 男 待ってるの? 女 あ、うぅん。  待ってないわ。  ごめんなさい。  ついはずみで言っただけ。  私もそういうタイプじゃないの。  アナタと同じで。 男 いや、ボクはきっとそんなにクールじゃない。  さっきはそう言ったけどね。 女 そうね。  わかって言ったの。 男 え。 女 お酒を飲んで、それで何をしようとした? 男 ボクが……? 女 そう。 男 何をって……?  どういうことだろう? 女 準備よ。  何かのね。  血の巡りを良くしてからってこと。  違う?     沈黙。 男 つまり、選んだってことなんだろうね。  必然だとすれば。 女 まだ拘ってるの? 男 ああ……。  まあね。 女 どうしても認めたくない? 男 いや、そういうわけでもないけど……。 女 じゃあ理由なき必然っていうんじゃダメかしら? 男 ……。 女 アナタだけじゃないわ。  みんな選んでいるはずよ。  それを認めたくないだけ。  もっと別の作用によるものだって思いたいのよ。 男 なんだろう?  その別の作用って。 女 ええ……。  何だと思う? 男 たとえば何かのおぼし召しみたいな? 女 そうね、そんなところでいいんじゃない?  気休めくらいにはなるでしょ?  一切れのパンのように。 男 ああ、そうかもね。  ありがとう。 女 少し休んだ方がいいわ。  それから戻ればいいのよ。  いつもの池のある中庭に。 男 戻れるかな?       二人、しばし見つめ合う。 女 戻りたい? 男 そうだね。  もうどうでもいいって思っていたのに……。  妙なものだね。 女 何が? 男 この期に及んでなんだか不安になるなんて……。 女 バスに乗りなおせばいいのよ。  酔いを醒ましてからね。 男 ああ、そうしようと思う。  でもなんだか急に……。     男、突然立ち上がる。 女 どうしたの?  また空耳? 男 いや……。 女 急に、なに? 男 うん、ちょっと……。  怖いって言うか……。 女 え。 男 いや、ちょっと眠くなったからさ。 女 いいのよ。  眠って。  疲れているんでしょ? 女 どうしたの? 男 このまま眠ったら、なんだかさ。 女 眠ったら……? 男 うん、どうなるんだろうって一瞬思ったんだ。  イヤな予感がした。 女 心配しないで。  まだ間に合うわ。 男 そうかな? 女 そうよ。  私が保証してあげる。 男 でもバスの乗り場が思い出せない。 女 アナタが降りた場所よ。 男 そうだね。  だけど、それがどこだったか……。     男、睡魔に襲われ姿勢を崩しそう     になる。 男 あ、おっと。  まただ。 女 起こしてもらえるわ。 男 え。 女 きっと誰かにね。  また予鈴がなる頃に。 男 ああ……。 女 おやすみなさい。 男 でも、なんだってあんなことを……。 女 あんなこと? 男 選んだんだろう……?  彼女はなんだって……。 女 仕方なかったのよ。  誰のせいでもないわ。     男、睡魔と闘っている。 男 おっと……。 女 海が見えるわ。 男 え。 女 海よ。  繋がってるの。  言ったでしょ? 男 ああ……。 女 アナタは大丈夫よ。  安心なさい。 男 ……。 女 大丈夫よ。  戻れるわ。  必ずね。  大丈夫よ。  ちょっと迷っただけ。  よくあることよ。  大丈夫よ。  大丈夫。      男、泥のようにベンチに崩れる。    女、その寸前に素早く立ち上がる。        女、首から提げていた小さな飾りを外し、    男の胸のあたりに置く。    そして、ゆっくりとベンチの周りを一回    りする。    なにか深い意味があるかのように。                     ‐了‐